住職のブログ

A*C*T*G

2020/11/29 22:49
おかげさまにて無事に報恩講を勤めさせていただきました。独り身の専従員は全てを切り盛りすることに振り回されていました。
ご講師からも心配されてしまいましたが、これでも参拝の皆さまにお願いはしていたのですが。笑

さて、最近痛感したもの、、、。

人間関係はいくらなんと言っても結局は「ギブ、アンド、テイク」ですよね。
与えたり、助けたりにギブのみは存在しません。
大体は、倍返しは最低条件でしょうか。
そこを見誤ればトラブルになります。
冠婚葬祭においてもギブだけでは済みません。必ずテイクが必要で半返しより少なければイヤミや文句を言われます。

でも本当に相手を想うのであれば「ギブ、アンド、ギブ」出なくてはなりません。
見返りを求めるから結局は「争い」「苦悩」が生じてしまうのでしょう。
しかしながらこれは人間には至難の業でしょう。欲に生きる者にはテイクが離れません。

そう思えばこそ、一切の見返りを求めない仏の頼もしさを感じずにはいられません。
「ヘルプミー」ではなく「サンキュー」
これこそが真実なる仏のお救いです。

頼んで叶える、、、。人間がずっと願って止まない願望ですよね笑笑
でも、叶ったのでしょうか?たまたま叶っても満たされません。欲は尽きないから。

「ギブ、アンド、ギブ」の世界は「しあわせの遺伝子オン」です。
遺伝子が解明される中、色々なことがわかってきました。

原始生命から人間までの三十数億年分の進化プロセスを、あの十月十日の母胎内で忠実に再現して出生するのだそうです。
驚きですね‼️
と言うことは、生まれてきて、オギャー!
すでに三十億歳なのかも知れませんね。そう思うと生まれるってすごいことなのでしょうか。

遺伝子の凄さは、1つの細胞の核には千ページの本で千冊分の情報が書き込まれているそう。
そのうちのせいぜい5%程度しかオンになっていない。
しあわせホルモン、ギブ、アンド、ギブは、典型的には母親と赤ん坊の関係だと思います。
たまに例外はみうけられますが、基本は母子の関係と認識しています。
「至上の満足感」=遺伝子オン

遺伝子は目に見えない小さな細胞。
その核におさめられている遺伝子は、A.C.T.Gというたった四つの化学の文字の組み合わせで表されて、
3000000000【三十億】もの膨大な情報が書かれている。

単純にして膨大なこれらの情報によって、地球上に存在するすべての生物、少なく見積もっても二百万種の生命が
生かされているのですから凄いですよね。
しかも人類六十億人の全遺伝子を集めても【米つぶ1つの重さにもならない】

人間の知恵をはるかに超えた何ものか、、、。人はカミと呼ぶのでしょうか。

私が生まれてきた可能性を計算すると、《バラバラにされた時計の全部品が十階建てのビルの上から放り投げられ、
地上に届く間に時計に組み上がっている可能性と同じと言われます。》よくわからん。

つまり簡単に言えば、人間に生まれるということは実に難しいということです。
仏教では【人身受けがたし】

私を私たらしめているもの、それは遺伝子であり、その遺伝子は多くの願いのもとに出来上がっているものじゃないでしょうか。
そう思えばこそ、粗末にしてはならないもの。自分だけの生命ではなく多くのものによってならしめられたもの。
傷つけたり、生命を奪ったりしてはならないもの。
いつまでも自分勝手に命を扱わずに、一度ゆっくり考えてみたいものです。

今、出会っている、、、。それだけども奇跡のようなものじゃないでしょうか。

できる限りお互いに尊重して大切にしていきたいものですね。
私も大切なものを見失っていくところでしたよ。恥

まだ間に合うかな。

 

死んだら、どうなるの?

2020/11/28 02:02
日頃からよく聞くことではありますが、「結局、死んだらおしまいなんだな。」、「死んで楽になった。」、「死ねば仏」、、、。
このようなことを耳にします。そもそもなぜ生まれてきたかもわからないお互いです。なかなか死んだら
どうなるのかなんかわかるはずもありませんよね。

[輪廻転生]
六道とは?
六道は古代インドを起源とする輪廻思想と結びついた言葉で、生命が永遠に転生を続ける六つの世界のことを
いいます。(輪廻転生=梵語で「サンサーラ」)。
一つの世界を終えた生き物は、来世において六つの世界のいずれかに生まれ変わります。
これを「六道輪廻」と呼びます。
六道には苦しみの多い順に、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道があります。
いずれの世界においても、煩悩や苦悩から自由であることはできませんが、最も悲惨な境界が地獄道とされます。
どの世界に生まれ変わるかは、一つの世界でどんな所業を積んだかによって決定され、仏教ではこれを【因果応報】と呼びます。
仏教では六道輪廻から完全に離脱し、究極の理想の世界である極楽浄土に往生することを【解脱】といいます。

[三途の川とは?]
死んでから七日目に、死者が冥土へ赴く途中で渡るとされる川を三途の川といいます。
あるいは三瀬川と呼ばれることもあります。三途の川のこちら側が「賽の河原」です。
地獄の様子が詳しく書かれている『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(平安時代に成立)によれば、
死者が川を渡るときには、生前の行いにしたがって善人は橋をわたり、罪の軽い人は浅瀬を、また重罪を犯した人は深くて流れが急なところを渡らねばならないとされます。
そこから渡った対岸には、奪衣婆〈だつえば〉と懸衣翁〈けんねおう〉という二匹の鬼がいて、死者の衣服を奪って木(衣領樹)〈えりょうじゅ〉に、掛けます。すると生前に犯した悪業の軽重によって枝の垂れ方が異なり、この結果にしたがって死者は次の審判を受けることになるのです。

[閻魔大王とは?]
冥土に赴いた死者は生前の罪を裁く十人の王に出会いますが、閻魔大王は五番目に登場して、死後三十五日目の審判を担当します。
古代インド、バラモン教の神話によれば、閻魔大王は世界で最初の死者であり、天上に暮らす死者たちの支配者である死の神「ヤマ」でしたが、のちに仏教に取り込まれて地獄の王となったのでした。
閻魔大王は獄卒である地獄の鬼を従え、水晶でできた「浄瑠璃の鏡」によって、死者の生前のすべての善行悪行を映し出して審判を行い、罪の軽重を決めます。審判の後、死者には七日間の猶予が与えられ、四十二日目に次の審判者である変成王〈へんじょうおう〉の前に出されます。閻魔大王は恐ろしい審判者である一方、慈悲深い地蔵菩薩の化身としても崇敬されています。

【極楽浄土とは?】
極楽浄土は仏さまの住む国であり、一切の苦しみや煩悩から解放された清らかな悟りの世界のことをいいます。
浄土教では阿弥陀如来によって築かれた世界であり、西方極楽浄土とも呼ばれ、西方十万億土の彼方にある国とされます。
一方、煩悩に満ちた凡夫(臨終まで煩悩から離れられない者)が住む現世のことを「穢土」といいます。
極楽は地獄、畜生、餓鬼などを転生する六道輪廻から解放された世界であり、永遠の平安と豊かさに満ちた、何不自由ない理想郷です。
咲き乱れる美しい花々、宝石(金、銀、瑠璃)で飾られた宮殿のような住まい、天から流れる心地よい音楽、食べたいと思ったときに供されるご馳走、一面に漂うえもいわれぬ香り。そこからすべての人は、男性女性の性別を超越し、みずから仏となるべく修行に勤めているといわれれます。

⭕️夫婦も、親子も、実に三十数億年にただ一度、やっとのことで《お会いできた》、しかもまことにはかない縁に違いないのです。
智慧と慈悲を円に具えた阿弥陀如来の本願を聞いてください。
初めは何のことやらわからなくても、必ず受けとめていくことができますよ。
私がそうだったから。あらゆるいのちにはたらき続ける仏さまですから。
大切な人が命をかけてまで阿弥陀如来に寄せてくださったことを知っていただけたら嬉しいです。
 

一緒に歩む

2020/11/24 23:20
浄土真宗にご縁をいただく方にとって、「他力本願」のお救いを明らかにされた方、親鸞聖人は
かけがえのない方であります。


旧暦の11月28日は、その親鸞聖人がお亡くなりになられた日(ご命日)であります。
1263年(弘長二年)、弟•尋有の善法坊にて往生と伝えられています。

90年の生涯をかけて【南無阿弥陀仏】をたよりにして生きよ、と自らも実践の中でお伝えくださいました。
[浄土真宗本願寺派]では【なもあみだぶつ】
[真宗大谷派]では「なむあみだぶつ」

《我(阿弥陀)にまかせよ、必ず救う。我が名を申せよ(いのちの親としての名乗り)、必ず喜びだけの安穏な国(極楽浄土)へ生まれさせ、仏にする仏がここにいる。

心配するな、独りぼっちではないよ。
《一人いて喜ばば二人と思うべし。二人いて喜ばば三人(みたり)と思うべし。
その一人は親鸞なり。

愚痴や他人の悪口ばかり言って、自分の自慢ばかりをして生きている私のこの口に、親鸞聖人と同じ信心、【南無阿弥陀仏】を称えることができていることは何に替えることができないほどの喜びです。

私たちが苦悩の中で生き死にを繰り返していますが、いつまで続くのでしょうか。
死ねば仏⁈いえ、死んだら仏にはなりません。
苦悩の私はお慈悲の阿弥陀如来の智慧と慈悲に遇わせていただき受け止めていかねばなりません。
迷いの世界は、六道あります。
地獄《罪を償わせるための世界》餓鬼《他人を思いやれなかった人が堕ちる世界》畜生《本能ばかりで生きている》修羅《争い、終始戦い、苦しみ怒りが絶えないが地獄のような世界ではなく苦しみは自らに帰結するところが大きい世界》人間《四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界。しかしながら楽しみもある。》天上《天人の世界。人間よりは優れた存在。寿命は非常に長く、苦しみも人間に比べてほとんど無い。しかしながら煩悩からは解放されておらず、仏教に出会うこともないため解説もできない。》
※六道の中、一度だけ【救い】に遇える機会がある。それは人間界だけである。
阿弥陀如来の智慧と慈悲に遇うしか〈死ねば仏〉にはなり得ない。

六波羅蜜
布施(人に分け与えること)、持戒(戒律を守る)、忍辱(苦難に耐え忍ぶこと)、精進(努力すること)、禅定(心を乱さないこと)、智慧(仏教の教えを守り、真実を見る智慧を働かせて悟り、苦悩から解放されること)

死ぬまで煩悩からは逃れられない私たちは、阿弥陀如来の本願〈他力〉でしか救いには遇えません。
その唯一の道を生涯をかけて伝えてくださったのが親鸞聖人であります。

苦悩の道を「一緒」に歩まれる方こそが親鸞聖人でありました。

【真実の教え】浄土真宗です。
あらゆるいのちを【南無阿弥陀仏】のはたらき一つでお救いくださるのです。

憑〈たのむ〉親鸞聖人が使われた漢字です。
私たちが使うのは【頼】で〈たのむ〉ですよね。

憑=よりかかる。たよりにする。その力をたのみにする。

つまりは、こちらからお願いすることではない!ですよね。
相手の思うがままに救われていくのですね。これこそが浄土真宗のお救いなのです。
そのおいわれを是非、親鸞聖人へのご恩法要、【報恩講】へお参りして
聞かせていただきたいですね。
これが親鸞聖人33回忌から始まり、今まで毎年勤められているのです。

 

魔法の言葉

2020/11/20 09:20
ふっと思ったので忘れちゃう前にアップしますね。

今、築地本願寺さまの看板を借りて首都圏都市開教活動に勤しんでいます。
いるま布教所を開所して早4年目ですがまだまだ安定せずタイトロープ状態。
愚痴めいたブログになりますが先に謝っておきます。

何事を成すにも10年位はかかるもの。
そんなに甘くはない。
築地本願寺からの助成金も今年3月で終わり、実家からも援助は無し。
あまりに仕事が無く頭を下げに行ったこともありますが(情け無いですが)
やはり大して良い返事はありませんでした。(ま、わかっていたけどね)
そこへ新型コロナウィルス感染拡大により外出自粛、、、。

今までずっと一人で頑張ってきたけど、いよいよ限界か、、、と思った。
誰も「頑張っていこう!」とは言ってくれない。
むしろ身近からは「辞めてください!」の嫌悪の言葉を浴びせられている。
「末田さんが嫌いです!」
もう幾度となく言われ続けている。
「迷惑だ!」
これも数知れずだ。
「専従員にしてはいけない人を専従員にしてしまった」
この言葉は今までで一番傷つきました笑笑

それでも辞めずにここまで来た。破産せずにいる。

53になって人生で初めてかけていただいた言葉。

《一緒に頑張ろう!》【末田君を助ける!】

この言葉にどの言葉より僕は心から感激しました。
罵声は耳に慣れていたが、〈一緒に〉は今までほぼ経験は無い。
折れかけていた僕の心は再びエンジンをかけることができました。
未熟だけど何にもできないけど、、、やれることを精一杯やってみよう。
新型コロナウィルス感染拡大でお参りが全部キャンセルになった時も、
〈何とかなる〉〈大丈夫だよ!〉

笑顔で励ましてくれました。

周りからは〈末田君は脇が甘い〉とか〈無視〉されていたけど、気にならなくなった。
誰を信じて、何を信じて生きていくのかを教えていただきました。
《一緒に頑張ろう!》

涙が出るほどの安堵感。

僕たち僧侶は、法を語る布教使は法を仰ぎつつ、《一緒》=【御同朋、御同行】の道をお伝え
させていただくべきなんだと今更ながら思い知らされました。

僕を全否定する人間の言葉もあり、僕を生かそうとする人間の言葉もあります。
法を仰ぐことで何を大切にするべきなのかを知らされました。

最後に難しい言葉ですが『日めくり歎異抄』からご紹介します。

《人間の言葉は当てにならない。そんなものに惑わされるな》
[出拠]
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、
総じてもつて存知せざるなり。

[現代語訳]
親鸞聖人は「念仏が浄土に生まれる因か、地獄に堕ちる行いなのか、まったく知らない」
と言われている。この「知らない」という言葉は、「私が判断することではない」ということを
知らせるとともに、人間の言葉によって確証を得ようとすることの危険性を教えてくれる。


【何とかなる、心配するな】一休禅師 遺言

今月の超法寺掲示伝道より。

自己責任でお願いいたします

2020/11/20 08:30
おはようございます。新型コロナウィルス感染拡大が
相変わらずの人間による自分勝手な論理で第三波として押し寄せています。
ニュースを拝見しているとあれほどこの世のお終いみたいに震えがったはず
だったのを忘れてしまわれたのでしょうか⁈
また国が自治体が助けてくれるとか思っていたら愚かですよ。

もう給付金を支給する体力などありません。

だからGO TOなどという経済を動かせる政策をしているのだから。
国民へのサービスじゃないんですよ。
何か誤解しているように思えて仕方がありません。
ワクチン開発はありますが治せるレベルのものは無理だと聞きました。
ましてや二度の摂取が必要だしこれも自己責任で判断する必要があります。
インフルエンザも猛威を振るう可能性もあります。

マスクをきちんとしませんと身は守れないよ。
食事の時も煩わしくても油断すれば感染リスクはあります。
自分の都合を優先すれば家族まで感染する危険性がある〈独身でも油断はダメ〉

コンビニ前で呑気にタバコを吸う姿には理解不能です。
喫煙など肺に恐ろしいくらいの負担をかけるのにそのリスクもマスクをしていないことで
空気感染(飛沫感染)リスクも冒しているというのに。

パチンコ屋さんの駐車場は連日の満杯状態ですが怖くてたまりません。
感染したら後遺症は一生続くというのになぁ。
ならないとわからないなんて、、、。人間って。

法を説き、語る立場の僧侶ですら、、、、、涙
憤りしかありませんよ。
この緊張感の無さが、、、。

皆さん、くれぐれも【自己責任】ですから。
家族や仲間にうつしても、、、。一生かけて、、、。

僕はこれ以上無駄に迷惑かけるのはイヤだな。

新型コロナウィルスが悪の根源ではないよ

2020/11/15 03:26
疫病退散、正午に祈りを。

「東大寺、宗教、宗派を超え呼びかけ」(令和2年4月6日 毎日新聞)

新型コロナウィルス感染拡大の中、東大寺(奈良)が全国の寺院、神社、教会に
時間を合わせ毎日正午に祈ろうと呼びかけておられる。
狭川普文別当の「早期終息と、感染により亡くなられた方々の追福菩提を共に祈りましょう」
とのメッセージをホームページに掲載された。
東大寺では、修ニ会(しゅにえ)〈お水取り〉が始まった三月一日から「疫病退散」を祈る勤行を
毎日続けています。

しかしながらこれは仏教ではありません‼️

六月二十三日、沖縄の終戦の日でした。その前後に連日、新聞には75年前の沖縄戦の悲惨な現実が報道
されていました。約三ヶ月の地上戦で沖縄県民の4人に1人が殺され、軍民合わせて約20万人の日本人が亡くなりました。
八月六日、広島に世界初の原爆が投下され、約20万人が亡くなりました。
八月九日、長崎に原爆が投下され約14万人が亡くなりました。
そしてやっと八月十五日終戦、日本は負けを認めたのです。

約310万人もの尊い日本人が亡くなりました。
これだけの尊い命が犠牲になって何を得られたのでしょうか。
どれだけの悲しみ、涙が流されたのでしょうか。
子供を主人を兄弟を戦争に送り出した日本人は、政府の奨励もあり、日夜「戦勝祈願」と子供や主人の「武運長久」を
神や仏に祈り続けました。結果はこの現実でした。

祈りが足らなかったのでしょうか⁇

戦争であれほどの犠牲を払ったのです。
戦争に勝つことや試合に勝つことや、大学に合格することや、病気が良くなること等々、厄除け、商売繁盛、豊作祈願、
大漁祈願、交通安全祈願等々、、、。

神さまや仏さまは、人間の勝手な「欲」の祈りや願いを、叶えてくださるお方ではない!ことをいい加減知るべきです。
もし叶えてくださる神さまや仏さまがおられたらどうなるか⁉️
「人類は滅びます」

自分勝手な人間の祈りや願いを叶えてくださらないからこそ「尊い」のです。
しかしながら人間は弱いものですから何かに頼りたい。
普段は否定していても、何かにすがりたいから神仏に祈ろうとするのでしょう。
そして祈ることで、お守りや供養、お祓いをすることで少しでも楽になりたい。
でも楽(ラク)、、、クが残ってしまいます。苦笑

仏教は宗教でありつつも、人間の身勝手な祈りや願いを叶える道具(ツール)ではありません。
【仏さまの願いを聞きなさい!仏さまの心を聞きましょう】
これが仏教であります。

《仏になる》ことを究極の目標として、この人生を歩むのが人間として正しい生き方なのです。

全てのもののしあわせ、全てのものの救いを願う仏になる。
他人の苦しみを自分の苦しみとして、他人の悲しみを自分の悲しみとして、他人の喜びを自分の喜びとして、
我が身を捨てて他人を救う仏になる。
仏教とは、そういう仏になる道を説いているのです。

改めてかの宮沢賢治さんが言われた言葉が身に沁みます。
「世界が、全体しあわせでなければ、個人のしあわせはあり得ない」
これこそが真実なのでしょう。

亡き祖母が常々言っていたが、「お前、幸せになりたいか?」
ならば、「お前の周りにいる人全てを笑顔にしてやりんさい。そうすれば必ずお前は幸せになれるから」
そういうことなのですね。

どうしても人間は自分だけがしあわせになりたいと願うもの。
だけれども人間は自分一人ではしあわせにはなれないんです。

頭で知るを《知識》という。身と心で知るを《智慧》といいます。

人間の苦悩は絶えないのです。
他によって生かされていながら、自分の力で生きていると思い上がり、自己中心の我執我欲の心に埋没して生きています。
自分をばかり主張して、他(周り)を傷つけて、自らも傷つきながら苦悩の人生を生きている有り様が
人間(凡夫)であります。
そのことに気づかされ、〈今〉を確かに生きていく道こそが、私に仏法に目覚め、仏になることを勧め、仏になる道を説くのですね。

誰かのために祈りを捧げることよりも自分の有り様を気づかされて生きていく。
それを知ることこそ大事だと思いますよ。

週末、あちこちの行楽地、高速道路はごった返しています。
まだ感染拡大しているというのにもかかわらず、経済を動かすためと政策に踊らされ
感染リスクを忘れている人間の浅はかさを感じずにはおれません。
だからこそ、聞いておくべきことは早めに済ませておきましょう。

全て〈自己責任〉ですから。
誰も私のいのちの責任は取れません。
新型コロナウィルス感染の後遺症は死ぬまで続くそうです。
それでもいいならしかたない。どうぞご自由に。
でも他人を巻き込まないでくださいませ。

わが身を知らされました

2020/11/10 01:35
煩悩具足のボロ家に
南無阿弥陀仏が住みついて
明かりがついてボロ家の
おんボロボロが見えまする
南無阿弥陀仏と見えまする
〈木村無相〉


南無阿弥陀仏は「煩悩具足、罪悪の凡夫おまえを、そのまま必ず救う」
という阿弥陀如来の仰せ、はたらきです。

木村無相さんは元、真言宗のお坊さんでした。
親鸞聖人の教えにであい、どうしても自分をごまかすことができず、
真言宗を離れ、お念仏の人となられました。

「道がある、道がある、たった一つの道がある。極重悪人唯称仏」
ともうたわれます。

東本願寺の会館の門衛をされ、最後は福井県の老人ホームで過ごされ、
昭和59年1月、80歳で往生されました。

🟠仏教では、人間のことを「有情(うじょう)」といいます。
こころ(情、心、意)有る者ということです。
❌このこころが一番の問題なのです。
「身、口、意の三業(しんくいのさんごう)」
身業(しんごう)とは、身体ですること。
口業(くごう)とは、口で言うこと。
意業(いごう)とは、心に思うこと。

この三業をなして人間は生きています。
🟣この人間の行為、行いの中で、こころ(意)を
一番問題にするのが仏教です。

人間は、口ではよいことも言います。時には善い行いもします。
しかしその時でも、心の中まで問われるとどうでしょうか。
心の中まで問われて、それでもあなたは善人ですか?

自分を善人と思っている人は、善悪で人を責める。
自分を賢いと思っている人は、賢愚(けんぐ)で人を責める。故に人に嫌われる。

昔から「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」と言いますが、これを初めて見たのは
忘れもしません広島県大竹市の某飲み屋さんのトイレの壁に貼ってありました。
頭を下げる人はたくさん見かけるけど、頭が下がる人になるのは稀でしょうか。
偉い人ほど有難い人ほど頭が下がればいいのですが残念ながら、、、。そうはならないようです。

「私は人を殺したことも傷つけたこともないし、盗みもしたことがないから悪人でも罪人でもない」と
お思いの方もあるでしょうね。
でも「この手をかけて人を殺したことは無いけど、口〈言葉〉で人を殺したことはどうでしょうか。
いやいや、口で殺したことは無いというかも知れないが、心の中で人を殺したことは無いといえますか?
また、人は殺したことは無いけど、魚や鳥や虫や動物をたくさん殺したことは無い⁈
遊びで命を粗末にしてこなかったか。仏教では人も動物も植物のいのちですら同じいのちとしてとらえます。

仏教の教えにあい、智慧(真実を見る目)が深まれば深まるほど、自己の罪悪を深く思うようになるのです。

⭕️「煩悩具足のポロ家に、南無阿弥陀仏が住みついた」
南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の厳しい、厳しい智慧のはたらきです。
凡夫(臨終の時まで煩悩から離れられないもの)わたしの胸の底の底まで見抜いて
知り抜いてくださいます。
そして、その私を責めもせず、裁きもせずに「そのまま」と、抱いてくださるお慈悲のはたらきです。

🔴阿弥陀如来のはたらきを、お念仏〈南無阿弥陀仏〉として、わが身にいただく人は、この如来さまの
智慧に照らされ、慈悲の親心に抱かれてあります。
そのはたらきで、この罪悪の凡夫、私が浄土真宗の世界に生まれ、仏になりますと
生きていく道が浄土真宗です。

真実の前では何も誇れない私に、変われといわれる如来ではありません。
変われない私のために如来が自ら変わってくださいます。

だからこそ安心していいのです。

真実に出会わないと、我が身の本当の姿には気づかないのですね。

出会わないと「何のために生まれてきたのか」がわからない。
ということは、「何のために生きるのか」もやはりわからないのでしょうね。
ということは「死んだらどうなる私か」もやはりわからないです。

つまりは一生、安らぎになることはないのですよね。
自分は正しい!という盾で相手を叩くのが愚かな姿です。
もう一度、ゆっくりと考える時間前を持ちたいものですね。
※画像をクリックすると拡大表示されます

カタルシス

2020/11/06 10:55
いよいよ今年も親鸞聖人さま報恩講の季節になりました。
昨年は不注意なバイク単独事故で2度目の救急車搬送を経験して
年末年始は冷静さを欠いた行動をしました。焦ると人間は不用意なことを
してしまうのですね。人間の知恵は当てにはならない、今開票作業で大揉めの
あの某国の有様を見ればよくわかりますよね。

私自身も50もの歳を重ねても相変わらずの未熟な実に愚かな生き方をしています。
やはりペアである必要はあるようですね。
男と女ではモノの見方、考え方は全く違うしもちろん価値観だって違う。
男だってそれぞれ好きだ!嫌いだ!で人を裁いて生きるし女だって同じです。

自分は違うと言ってもやはり知らず知らずのうちにそうやって裁いて生きています。
仏さまとは真反対!何も誇れるものはありません。
「欲の塊」が法衣を着てらしく振る舞うだけで、、、。

だからこそ、法を語る立場にある者は「欲」で語ることはなるべく避けたい。
ではどうするのか?
[心の浄化]を意味するカタルシスを大切にすべきだと思います。
気持ちの浄化とも言うこの言葉の意味すること、それは人間の欲では理解できるものではない。

人間には真実などないから。
真実でさえ自分の思い通りにしたい。力のある者はそうしようとする。
そうやって他者を裁き、差別し区別して争い、いじめが起こるのですね。

親鸞聖人が歩まれた道は、「他人には優しく自身には厳しく生きられた」
だからこそ、人々は彼の元に足を運ばれた。そう思うし、800年以上経っても
慕われているのでしょう。
よく「親鸞聖人にたち帰る」などというけど言葉だけが虚しい。
だって「他人には厳しく自身には優しい」私がどうやって⁈
根本が原点が全く違って真反対なのだから有り得ませんよね笑

【聞くことは信心なり】
では何を聞くのだろう。
私が正しくはないこと。愚かな生き方しかできないこと。この世は自分の思い通りにはならないこと。
他人は言葉では変わらない。変えたいなら私が変わるしかないこと。
政治家が悪い、嫌い、、、。よく聞きますが政治家も私も同じ人間です。
私の代弁者〈代議士〉なのだから、、、笑笑
やはり人間は独り生まれ独り死にゆく。

親鸞聖人が生き抜かれた人生を通して私の往く道を「今」訪ねていく場
こそ仏法聴聞することじゃないかな。

カタルシス。(とんねるずさんの『一番偉い人へ』で初めて聞いた言葉)ですが、
気持ちをリセットする大切な仏事が報恩講じゃないかと思います。

新型コロナウィルスはまだまだ収まりません。
油断しないように。自己責任でお願いいたします。
インフルエンザも乾燥では猛威をふるいます。
マスクで喉を乾燥させないようにしたいですね。

またお元気に皆さんにお会いできればと思います。

〈阿弥陀さまにおまかせすることで「お恥ずかしい」に気づかせていただきましょう〉

 
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