住職のブログ

失敗ばかりの人生だけれども

2020/02/17 20:29
こんばんは。新コロナウイルスの脅威がヒシヒシと近寄ってきました。
明日は我が身ですから最大限に注意・予防(うがい・手洗い)、マスク着用しましょう。
私は持病持ちですから結構シビアに対処していますが最後はなるようになりますね。
さて先日、林先生(今でしょ)のテレビでのコメントにグッときたので私の経験も踏まえて
お話しします。この五年間は実家を離れ自分の意志ですべてを考え決めて行動してきました。
身軽になって30年間やってきたスキルを生かせば問題なくできる!そう思って過ごしてきました。
その結果、順調にうまく行っているのか?
残念ながらとても自分の力だけで寺院運営が軌道に乗ってなどいません。
どんなに頑張ってみても自分ひとりでやれることなどわずかなものです。
やりたいこと」はまだ浄土真宗の仏縁にお出遇いされていない方にお念仏の頼もしさをお伝え
できていません。それはどうしてなのか。
基本的に生活の基盤が確立されていないこと。独身でひとりのわずかな知恵ではカバーしきれない。
圧倒的に葬儀・法事のお手伝いでしか仕事ができていない。
つまり一時的な収入があっても継続的なものにはならない。寺院の信徒(檀家)が増えていない。
ですから収入が実に不安定なままであります。そんな簡単にはファンは増えません。
今まで全く縁の無かった街に住んで丸四年ではそんなに人間関係も構築されません。
その中でも「笑顔」に出会える機会はとてもしあわせを感じる時間です。
その中で仕事につなげたいと営業で失敗し収入にはつながっていません。厳しいね。
ある先輩がエールの言葉を下さったことが力となっています。
「末田君、大変だろう。バブルの時の都市開教でも大変だったんだもの。でも辛い時ほど阿弥陀さまの事だけを
考えなさい。僕も窮地が沢山あったんだよ。家族を抱えて仕事も無いし貯えも底をついた。もうだめだ!と何度
思ったことか。その度に不思議な事が起こりかろうじて助けていただいたんだよ。不思議としか思えない。
その時ほどずっと阿弥陀さまが・・・。」そう仰ってくれました。
できること」は何だろう。自分らしく立ち振る舞うことしかないかな。
父が見せてくれた「笑顔」がどれだけ人をしあわせにするか。
父もきっと経験したであろうこの現実を。僕も見てみたい世界が今なのか(笑)
昨今は「挨拶」すら忘れてしまっている悲しい時代。
挨拶をするって気持ちいい。相手の温度を感じられる素晴らしいコミュニケーション。
スマホやLINE、SNSじゃ味わえない人間として生まれた喜びを一緒に考えたいのです。
ましてや人生の最後はサヨナラして天国へ行く?そんな寂しい余生じゃしあわせにはなれないよ。
阿弥陀さまの願いに気づけば私の生きる今は「与生」なんだ!
私だけの命。誰も代われない。かけがえのないかがやく命。それに気づけば生き方はきっと変わるよ。
私を産んで育ててくれた方への感謝、お礼は最後まで生き抜くことでしか返せないものだと思います。
生きたってしょうがない?しょうがないかどうかは私が決めるんじゃないよ。
私のいのちが生きたがっているうちは生きてみよう。そこに答えは見つかるよ。
辛い人生も一人じゃないよ。
阿弥陀さまがご一緒ですから。忘れないで。
私はこれを伝えたい。サヨナラして終わっていくあきらめの人生じゃなく、サヨナラしない人生
また遇える人生。二度と別れることのない人生。苦悩を超越していく道。
これに出遇うための私の人生なのだから。
死んだだけじゃ楽にもしあわせにもなれないんだから。
どんなに失敗しても、どんなに見捨てられても、決して見捨てないものがある。
それを伝えていくために私も生きていこうと思います。どうぞお寺にお越しくださいね。
 合掌念仏 南無阿弥陀仏

人間は悲しい

2020/02/03 11:24
2月になりました。つい先日、あけましておめでとうなどと言っていたのにもうこんなに時が過ぎましたね。
昨今は新型コロナウイルスが猛威を振るい連日マスクを買いに殺到する姿がオイルショックのトイレットペーパー
を思い出すようでした。このようにいつの時も人間はやることなすことが変わらないのでありますね。
また、この状況を逆手にオークションでは数十万円もの落札価格が付いていたりもします。
これもいつもの光景です。こうやって価値観やものの見方によって生きる方向も変わっているのです。
人間は、生まれたら必ず歳を取り病にもなり死んでいくのです。
どんなに人生100年時代といってみても「死ぬものなのです」
それぞれ生まれた時から平等ではなく、また「生きる保証書」もありません。
あるのは「いつでも死ねる私」の保証書があるだけです。
それなのに私の生き方といえば、自分だけは大丈夫だと思い込み自分の殻に閉じこもって一瞬の命すら貴重だというのに
無駄にしようとしています。元気なんか一瞬ですよ。若いなんてあっという間。
私は一人で生まれてきたのですよ!
忘れていませんか?生まれながらにして「孤独」なのです。
それなのに孤独を嫌がる。
仲間がいるから裏切られ虐められる。家族もいずれは離れていくのに間違いないと思い込む。
ペットだけは、、、。と思ってもそばにいなくなれば結局忘れられていく。
僕も泣く泣く愛犬を里子に出し2年ぶりに合わせていただいたら最後まで思い出されなかったのです。
あれほど一緒にいたのに。悲しんでいたのは愚かな僕だけでした。
また、ピンピンコロリしたい。長生きしたいなどと思っても長生きしたら結局は他人お世話にならなくてはいけない
寂しさがあります。だってみんなそんなに長生きしていないから。浦島太郎のお話みたいですね。
このように一人で生まれてきた私を一人にしないのは私じゃなく、我が子によって親にならせていただけた。
連れ合いによって、クラスメイトによって、会社によって、、、。一人じゃない私になれたのです。
それなのに自分の都合で、執着によって自ら苦しみ、悩んで、愚痴の私になっているのです。
そのようなありさまを悲しまれたのが仏さまです。
「渇愛」と仏教では言います。
求めれば求めるほど渇いていく、愛はそういうものです。
難しい話になりますが、『大無量寿経』には「人は皆世間の中にあって独生独死独去独来」と書かれています。
人は一人では生きていけません。一人で生きていけないから人間と書くのです。
ですから『大無量寿経』にも人はみな世間の中にあるとあります。

でもやっぱり一人は嫌だ。大切な人を失った時、みんなそう思うのです。
僕自身も子を目の前で失った時そう思いました。半狂乱にもなりました。泣き続けました。
そこで初めて真剣に「法話」を聞いて自身と向き合いました。徹底的に聞きました。
仕事も休み家に閉じこもるのではなくお寺に足を運んで「法話」を悲しみに溺れている僕の中に聞きまくったのです。
嫌になるほどに。京都の西本願寺にも行きました。法話を聞きながら号泣する僕を皆さん驚きながら見ていました。
今では懐かしい思い出です。「執着」という頑固な欲望にがんじがらめになっていた僕を静かに見守っていてくれたのは
他ならぬ「阿弥陀如来」南無阿弥陀仏でありました。
家族ではありませんでした。家族はいつまで泣いているんだ!早く仕事をしなさい!という。
決して間違ってはいませんね。正論だもの。でも僕は悲しくて辛くて仕事なんかしてられない。
あの子は最後に何を思うたのだろうか。気になった。気になると苦しい。
でもその答えは仏法にこそありました。聞くしかない。なぜではなくこの私がために仏になられた阿弥陀如来の言葉を。

そんな時僕には「寂しいときに」の言葉が染みてきました。あの女流詩人の金子みすゞさんです。
ご紹介します。
「わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
 わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
 わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
 わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。」

短い詩ですがとても心に響きます。
永遠の問いです。仏さまの本質は私の気持ちに寄り添い同じ思いでいてくださる。
いつまでも悲しみの底に居続ける私に貴方らしく生きてください。
サヨナラじゃないのだから。私を縁として「仏法」を聞く人になってね。
だってまた会えるのだから。
「倶会一処」

なんまんだぶつ。
これこそが私に死を見せてくれたあなたの願いだから。
(長文失礼しました)

合掌念仏

 
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