住職のブログ

常不軽菩薩になれない現実

2019/11/08 16:48
今年の台風は大きな傷跡を残しています。これで南海トラフ地震など来てしまったらどうやって生きていくのでしょうか。人間の生きる姿はいつもその場限りであり「忘却」の繰り返しです。
その時は大騒ぎしても、すぐに忘れていく「情報の消費」を繰り返すのですね。
そういう私も日々の暮らしの中で現実の厳しさに出逢いながらも毎日を過ごすのです。
さてこの度は皆さまも良くご存知の「一休さん」のお言葉をたずねてみたいと思います。
「常不軽菩薩を礼拝する。大昔の常不軽菩薩の話しをわすれることはできぬ。
 この常不軽(じょうふきょう)に対して、血気にはやり、怒ったり罵ったりした多くの
 人びとの心は恐ろしいものだよ。見よ、彼らの足もとは日に包まれた家のようで、あたり
 一面はすっかり無間地獄だよ。『狂雲集』五四五」

常不軽菩薩というのは、あらゆる人が成仏することを信じてこれを軽んずることなく、
逢う人ごとに礼拝したという菩薩である。

臨済宗の一休が、常不軽菩薩を親わしい仏として礼拝するというのも、どこか意外の感はあるが、
それは臨済禅というものは大味な仏法であって、根こそぎ否定するというところが粗暴な感じで
いただけない。何事かを成就するという気風が欠けているためであろう。
臨済の宗風と『法華経』の常不軽菩薩の話ちでは、比較する次元がまったくズレた話のようだが、そうではない。
一休が常不軽菩薩に助けを求めているというその事実だけで、ちゃんとつながっている。
一休はどこまでも自由自在なのである。

私は臨済宗の大学、花園大学卒業であります。
当時、自身の宗風に疑問を感じ飛び込んだ世界。
四年間で感じたこと、理想と現実のはざまでいかに人間が自分本位で生きているのかを痛切に感じている。
その中で、ちっぽけな論理の中で「比較」して裁いて自分優位に生きようとする。
あらゆる命に優劣などないのに。私自身がどれほどお聴聞しようがお念仏称えようが、生きている様は
無間地獄でしかない。自分だけは「浄土」へ参れるんだ!という油断が仏法を遠ざけている。

顔は目に程に物を言う!
阿弥陀さまを仰ぎ、仏恩報謝の日暮らしをしているはずの私が、喜びに満ちた表情をしていないのは
どうしてだろう。良く知っている人に出逢ったのに「挨拶」ができないのはなぜだろう。

昔、恩師に「どうしても仲良くできない人がいるがどうすればいいでしょうか」と相談した。
すると恩師は笑いながら「お前もお前の嫌いな人もお互い煩悩具足の泥凡夫じゃないか。」
そんなもの同士がこの世で仲良くできるはずないじゃないか。
そのお互いには阿弥陀如来の本願がかけられているんだから、お浄土に行ってから仲良くしても
遅くなんかないぞ!
この言葉に救われたことがありました。あれから「挨拶」を大切にしています。
それでもすぐ忘れている浅はかな私がいます。
それでも変わらずはたらき続けてくださる阿弥陀さまを想うとき、常不軽菩薩の姿を思うのです。

 
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