住職のブログ

十人をあやす一人の赤ん坊

2019/10/17 09:11
おはようございます、南無阿弥陀仏。
連日台風の被害に遭われた模様が報道されています。
しかしながら悲しいことにより甚大な被害に遭われた地域ばかりが報じられ、
今や山武市や市原市、南房総市の現在は殆ど伝えられない。

このように私たち人間世界は「情報消費」しながら生きています。
消費ですからいずれ忘れられていくのです。
情報だけではなく「この私も」記憶から忘れられていくのです。

何故、亡き人のご法事をきちんと勤めるのかわかりますか?
「忘れてはいけない人だから」なのですよ。
残念ながら、あれだけ可愛がって家族以上の存在であったペットではより如実です。
代わりペットがいればあの悲しみ苦しみから逃れて、ご法事をする人はいないのでは無いだろうか。
全員とは言いませんが、ペットの50回忌を勤めましたなどとは聞いたことがありません。

「忘却」は人間の常なり。

台風被害の模様が私たちのこれからに活かされることを切に願うばかりであります。
明日は我が身かも知れないお互いであります。

さてこの度は仏教月刊誌にあった川柳の特選に選ばれていたものです。
「が」を「を」と詠んだことが素晴らしいと評されていました。
普通なら十人の大人が「よしよし、、、。」と一人の赤ん坊をあやすのですが、
この句には逆に一人の赤ん坊が笑顔で大人十人をあやしているという場面です。
実に見事な表現ではないだろうか。
専門用語を使わなくても伝わるのは身近にあるのですね。
わざわざ難しい言葉を使う意味はないのです。
使えば使うほど世間から遠ざけられていくのに。専門用語を使うと気持ちがいいのかも知れませんがダメです。

東井義雄さんの歌集に「拝まない者もおがまれている。拝まないときも拝まれている。すみません。南無阿弥陀仏」
というのがあります。

私が阿弥陀さま(仏さま)を拝むのではなく阿弥陀さまが私を拝んでくださるのです。
勿体ないことですね。

とんな絶望の底にあろうとも私を見捨てず、この世の無常に気づいておくれ。
我が名を聞いて、真受けして命の親となった私の名を呼んで仏になっておくれ。
二度とあなたを苦しめたり迷わせたりしない浄土に生まれさせるから。
と、願いをかけ続けていてくださいます。
私たちが日々苦しみにであい右往左往しているのは「欲望=迷い」のいのちを生きているから。

母が私にずっと言い続けてくれた言葉があります。
若い頃は本当に嫌でたまらない言葉だったけど今ならそれがわかります。

「他人(ひと)のふり見て我がふり直せ」

人ごと戯言真あることなし。

阿弥陀さまは全部わかったうえで私に呼びかけていてくださいます。
有難いですね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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「どこから来たの?」1080人で歌おう!

2019/10/05 20:41
みなさんこんばんは。
今年も早残り3ヶ月を切りました。
慌ただしいですね。色々な出来事が毎日繰り返されます。
あまりに自分の考え方を優先させていると思いもよらない形で
周りを傷つけてしまいます。
傷つけてしまうだけでなく、治療もしないで訂正もしないでまた新たに
過激な言動を繰り返してまた人を傷つけているのです。
言葉は上手く使えば人をしあわせにするしハッピーにもできるのに、
自分は間違いない、あの人が間違っている!と責めることで自分だけじゃなく
多くの人をしあわせから遠ざけてしまうだけ。
言葉で伝えることが大切だと知っているのに過激な言葉で(暴力で)、、、。

さて今、我が街、入間市では今月22日に開催されます1080人で歌おう!「どこから来たの?」の
イベントに向けて準備がすすめわ進められています。
実は私はこのイベントに実行委員(運営)として、合唱団の一員として携わっています。
入間市の方々に知っていただく機会としてはこのような会合に顔を出していくことかな?
ひとりの市民として少しでも入間市のために尽力したい。などと考えています。
生きていく中にきっと「意味がある」ことに気づくのではないでしょうか。
地元を愛し、縁あって同じ時期に入間という街で出逢えたことを喜びと思える私になりたいなぁと思う。

仏教は誰か一部の人だけの教えではなくて、人生に苦悩するこの私がいつでも人生の指針にすることができる
とても身近で温かなしあわせにはになれるものだから、ひとりでも多くの人に伝わるように関わっていきたい。
このイベントでひとりでも多くの方が「笑顔」になれるお手伝いができたらいいなと思う。
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